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2023年7月17日 (月)

会津若松市を巡る

2日目はこの旅のメイン、会津若松市内を回りました。
この日の福島の最高気温は過去最高、全国一の暑さとニュースで言われてました。
朝ごはんをしっかり食べたらOS-1を持って出発です。

旅館入り口、右端の方に「八重の桜」の提灯

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ポスターとサイン色紙
NHK大河ドラマとして放映されていたのは2013年、もう10年も前のことなんですね。
ドラマ前半、会津での八重さんはりりしく美しくかっこよかったなぁ。

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さすが盆地の夏はほんまに暑うおまっせ。
しかし、街には高い建物はあまりなくて、雪が降れば道端にどけるためか道幅がゆったりとしていて、山からの風が心地よいとまでは言えませんが、灼熱という感じはしません。

あちこちで見かける赤べこ、厄除けとか幸運の牛などと言われています。
お城の入り口で
「はい、おとうさんもやって」
と娘に言われてポーズをとる父親、わたしとふたりのときは決してやらないだろう。

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会津若松城、鶴ヶ城とも言われています、美しい姿です。

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新政府軍にズダボロにされ、廃城寸前の姿はこちら。
屋根はひしゃげ、壁は崩落寸前、穴だらけです。

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中は展示物を見ながら天守閣へ上がるようになっています。
武士だけでなく、女性や子どもも銃を持ち戦ったことを示す資料が並んでいました。現代では理解しにくいことですが、この時代そういう教育がなされていたのですね。
「会津什の掟」ならぬものはならぬのです、市内のあちこちで見かけました。このあたり、NHK大河ドラマの「八重の桜」に詳しく描かれていました。
そうそう、お城でも旅館でも「八重の桜」推しというか、綾瀬はるかさんを全力で推してる感じがしました。
これは「はるか」と名付けられた桜、綾瀬はるかさんがとてもすてきなメッセージを寄せています。

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幕府から京都守護職を命じられ、藩の中では断るべきだとの強硬な意見が多い中、最終的には受けざるを得なくなり、松平容保以下藩兵は動乱の京都へ。
その後、禁門の変、鳥羽伏見の戦いなどを経て、戦の場所は会津へと移ります。
幕府から命じられた任務を忠実に遂行していたのに、ある日突然敵方に錦の御旗が上がり、会津藩は幕府軍から逆賊へ。
容保の首を差し出せとの命に憤慨した会津の人たちは、一丸となり城に立て籠もり応戦します。
天守閣から見える飯盛山では、少年たちで結成された白虎隊が、城下の火と煙を城が焼け落ちたものと見間違い、全員自決。
しかし、年齢を偽って志願入隊した飯沼貞吉ひとりは生き残ります。この人は後述する西郷頼母の妻の甥です。

お城から見た飯盛山(白虎隊自決の地)山の峰の真ん中あたり

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飯盛山からみたお城、中央あたり

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白虎隊自決の地はこの奥ですが、進むうち写真を撮る気になれずにここまででした。

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さざえ堂
小さい建物ですが、登りと下りの階段が違っていて、下から入って狭い階段をぐるぐる回って誰ともすれ違わないで上るうちに下りとなり、元の入口へ戻るという不思議な構造のお堂です。
ダ・ヴィンチが設計したとか?言われています、重要文化財です。

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Sazaedou

戸之口堰
猪苗代湖畔の戸ノ口原の戦いで敗れた白虎隊士は鶴ヶ城を目指してこの長さ150mの洞窟を潜り、小さな穴から出て命からがら飯盛山にたどり着いたそうです。

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この後、飯盛山を降りて少し情緒のある街中を歩いていたら「末廣」の酒蔵がありました。
旅館のラウンジでは自由に日本酒が飲め、他にも梅酒や甘酒、ソフトドリンクやお菓子などもありました。
食事のときに有料の飲み放題を付けたB男くんは、もっと早く知りたかったと悔しがっていました。
その中でも美味しかった「末廣」の蔵です。
見学させていただきました。

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この辺では乾杯条例というものがあり、宴会での乾杯は日本酒でやることと決まっているそうです。
さすが米どころ、酒どころ、美味しいお酒が多いと思いました。

このあと旅館へ戻る途中に見つけた「会津武家屋敷」
あまり期待しないで立ち寄ってみたら・・・
ここは、会津藩筆頭家老である西郷頼母の屋敷で、新政府軍の猛攻撃の際、頼母は国境警備に当たっていました。
藩士の家族が続々と城に逃げ込む中、西郷家の留守を預かる妻子や親族たち21人は、城にいては兵士たちの足手まといになる、かといって敵の手に落ちて辱めを受けるわけにはいかないと、全員が自決したという屋敷です。
その自刀の間というところに死装束の夫人から2歳の子どもまでの蝋人形が展示されています。

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自決のあと、ひとり死にきれずにいた娘が、部屋に入って来た武士に
「そなたは敵か味方か」
と尋ねます。
この武士は敵方の土佐藩の武士ですが、現場の様子からすべてを察して
「安心せよ、お味方でござる」
と答えます。
すると、娘は安心してその武士にとどめを刺すように頼み、武士は頼みどおりに介錯をして死なせてあげたのです。
あまりの凄惨な最期に絶句です。(写真は観光案内のサイトからお借りしました)
この日、わたしはなんだかとても怖い夢を見ました。
そしたらう~じんも、刀で刺されて一生懸命助けを求めているのにみんな知らん顔をしている夢を見たと言ってました。
あの蠟人形はあきませんわ、いつまでも目に残ります。

この日は13,000歩余り歩いてへろへろ、温泉で癒されて、わたしは9時には寝入ってしまったそうです、あはは。

【この日の食】
会津蕎麦
平たく伸ばした十割蕎麦、ちょっと馴染みのない食感でした。

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コメント

れいちさん、会津若松旅行、いいなぁ!

私が37年前に会津に行った時は、白虎隊とかいう悲劇の若者たちの断片しか知りませんでした。

今はアレも見たい、コレも確認したいの地です。

西郷頼母の家族の集団自決。その逸話は某小説にもしっかり書かれていたような。
この写真で気になったのは、武士の目線がこちらをむいてませんか?しかも現代風イケメン?
ちょっと残念です😥
そして背後の屏風が上下逆さまに立てられている!
自決の時はそういう作法だったんでしょうか?
その文の内容も気になります。

あ〜、やっぱり現地に行って見たい!確かめたい!

投稿: bonn | 2023年7月19日 (水) 06時12分

bonnちゃん
この日は濃い内容でした。
旅館も市街地から車で5分ほどだけど山の中で、戦のときには怪我を負った武士たちが手当てに来たにちげえねえと思いましたね。

時間があるから寄ってみようか、と軽い気持ちで立ち寄った西郷頼母屋敷は、とっても広くてとても保存状況がよかったです。
故に、ちょっと怖いところでした。

逆さ屏風は、自決に限らず人が亡くなるとこうするものだそうです。
(説明文に書いてあった)
あと、着物の袷わせを逆にするとか、湯かんのときには水を先に入れてからお湯を入れるとか・・・

これらは現世とあの世は逆にあるから、だそうです。
そういえば子どものころにそういうことをしたら縁起が悪いと言われたものでした。

白装束の女性たちは日本人形のような上品な顔立ちでしたけど、赤い毛をかぶった武士だけ現代風のマネキンのようでした。
こっち見てるって?
怖いこと言わんといてよ~。

しかし、ここの屋敷の女性たちの選択は哀しいながらもあっぱれ、そしてとっさに娘を安心させてあの世へ送った敵も武士の情け、充分ですね。

投稿: れいち | 2023年7月19日 (水) 18時33分

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