神君伊賀越え
天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変のとき、徳川家康は観光で訪れていた大阪の堺で、織田信長が家臣トップの明智光秀に討たれたことを知らされました。
そこから家康は、わずかな家臣とともに野を越え山を越え、急ぎ三河へ帰ろうとするのですが、途中、滋賀県甲賀市信楽町にある『小川城』へ立ち寄ります。
GWに帰省中のう~じんが、この小川城ゆかりの『多羅尾代官屋敷跡』へ行ってみたいと言うので、よく晴れた日、B男くんとわたしと一緒に行ってきました。
小川城は現在建物などなく、こんもりした砦を残すのみとなっています。
NHKの大河ドラマ『どうする家康』でも近いうちに本能寺の変が描かれることとなるでしょう。
どのルートを通る?誰を信用する?どうする?どうする家康?
タイトルどおり、岐路での選択と決断の場面がうまく描かれています。
わが家でも、う~じんも毎週楽しみに観ています。
のどかな山間の集落のはずれ、清らかな小川。
きれいに手入れされた丘です。
現在、代官屋敷跡に主だった建物はありません。
木立の中、マムシグサがあちこちに・・・有毒です、ひえ~。
ほんま、蝮のような柄です。
家康の伊賀越えは、京都の宇治田原から滋賀へ入り、ここからが難所となります。
家康はこの数日前に滋賀の安土城で信長の接待を受けており、光秀はその接待の責任者だったので、安土を発った家康のその後の行程はバレバレであり、光秀側の探索に警戒しながら、行く先々で農民の落ち武者狩りに警戒しなければなりません。
しかも、伊賀は自分らの領主権を守るため、長年にわたり惣国一揆を起こして信長を手こずらせてきたものが、この前年信長の激しい伊賀攻めによりついに解体されたことから、信長憎しの土地なのです。
多羅尾家の領主であった高山光俊は、甲賀から伊賀へ向かう家康の道中の警護に尽力した功績により、多羅尾には代官屋敷が置かれ、多羅尾家は明治維新まで手厚い保護を受けることとなりました。
この伊賀越えでは、服部半蔵の忍者衆による警護、京の豪商茶屋四郎次郎の財力による警護など多数の人の協力があって無事成し遂げられたようで多羅尾家のほか、服部半蔵は旗本として半蔵門と呼ばれることになる門の守備にあたり、茶屋四郎次郎は徳川家の御服御用達となるのです。
ところでこの日、信楽町では信楽駅前で陶器市、陶芸の森では作家市が開催されていて、向かう道は国道1本のみ、会場のはるか手前から双方とも大渋滞でした。
帰りに陶器市でも見ようかと思っていたわたしたちの思惑は甘々でした。
代官屋敷跡を見学したあと、カーナビで帰路を探し、一旦三重県の伊賀市へ抜けることにしました。
滋賀の甲賀と三重の伊賀は御斎峠(おとぎとうげ)をはさんだ土地です。
信楽側からゴルフ場を越えるくねくねと曲がりくねった細い道路が続いています。
するとこんな看板を見つけました。
『徳川家康伊賀越の道』
ふむふむ、ここを通ったのか・・・。
奇しくも家康と同じルートを通ることになったのです。
そしてその隣に『仕置場跡』
説明を読むと処刑場のことでした。
処刑は12月20日ですって。
1月に死刑が決まった人も12月に決まった人も一斉にこの日に処刑されたのでしょうか、なんかちょっと不公平な気がします。
とりあえず、こうして440年ほど前に家康が命からがら通った道をたどって帰ってきました。
*現在、家康の伊賀越えのルートについては諸説あります。
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