幕末ウォーク ~完結編~
昨年2月に挑戦が始まったわたしとBちゃんとの幕末ウォークは、第1回目に伏見から枚方まで18km、第2回目は枚方から守口まで19km、そして残すところ、守口から大阪城を経て盛岡藩蔵屋敷あとまでを歩くのみとなりました。
いいお天気です。
淀川では釣り糸を垂れる人、堤防を歩く人、自転車で走る人・・・休日のひとときを思い思いのスタイルで楽しむ人がたくさんいましたが、『おもさげなでがんす』と言いながら歩いてるのはわたしらくらいだと思われます。
『おもさげなでがんす』とは、東北弁で「申し訳ないことでございます」という意味らしく、『壬生義士伝』の主人公吉村貫一郎の生きざまをよく表している口癖なのですが、わたしとBちゃんの間では『ありがとう』であったり『ごめんね』だったり・・・でも通じます。
また、「かかとが痛くなってきたわ」などと言おうもんなら「さすけねえだか?」「ああ、さすけねえ」などと新島八重さん口調も加わり、もう何でもありの道連れです。
大阪湾が近くなってきたところで淀川から離れます。
大阪城が見えてきました。
淀屋橋から土佐堀沿いに進み、目指す盛岡(南部)藩の蔵屋敷あとは現在の中央区北浜3丁目あたりです。
この北浜というところは大阪証券取引所があり、関西金融界の中心地でもあります。
武士とは名ばかり、痩せた土地での農業では家族を養うことにも限界があり、吉村は盛岡藩を脱藩して新撰組に入ります。
出来高払いの新撰組では人を斬ってなんぼの世界。誰に何と言われようとも吉村は銭にこだわりどんな仕事も引き受け、得た収入を全部故郷の家族に送ります。
鳥羽伏見の戦いで幕府軍が破れ深手を負った吉村は、盛岡藩大坂留守居役を務めていた幼なじみの大野次郎右衛門を頼り、盛岡藩大坂蔵屋敷を訪れるも、大野は吉村の帰藩を拒み切腹を勧めます。
(これらは子母澤寛と浅田次郎の創作です)
この道筋がわたしとBちゃんの、伏見城から北浜の盛岡藩蔵屋敷あとまでのウォーキングなのでした。
さて現在、盛岡藩蔵屋敷あとは広島銀行やセンターホテル、居酒屋などとなっており、背中合わせの資生堂ビルは彦根藩蔵屋敷のあったところです。
また、近所には大阪大学医学部の前身である『適塾』もあります。
適塾は現在改修工事中で、見学はできませんでした。
適塾に隣接する『市立大阪愛珠幼稚園』は日本で2番目に古い幼稚園、この建物は現役使用中です。
この地は銅の鋳造所あとでもあり、門前に碑が建っています。
この日も20kmを歩きました。
吉村の足跡を完歩したという満足感と、目標がなくなった寂寥感・・・
早く次の楽しみを見つけないと、幕末廃人になりそうです。
【おまけ】
この日のランチは大阪工業大学前のインド料理店で、学生カレーセット500円な~り~。
見よ、このナンの大きさを。
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