函館の歳さん、ラスト
今回の記事は石碑だらけです。
興味のない人には『?』ですが、歳さんファンにはきっちり見分けがつくと思われます。
函館での新撰組の屯所は、『称名寺』という寺院でした。
付近はイギリスやフランスの領事館が立ち並ぶところ、和風建築が混在していたということです。
現在『函館元町ホテル』が建っています。
函館戦争では、旧幕府軍が地元民から徴収していた軍資金が底を尽き、榎本武揚は豪商から納金させようとしましたが、土方がこれに反対し榎本案は立ち消えになりました。
これを知った豪商たちは土方亡き後、彼の供養塔を建てました。
これが称名寺の境内に残っています。
現在の称名寺は・・・
市内を走る市電の終点のひとつ、函館どつく前から海沿いに外国人墓地の方向へ坂を上がっていく途中にあります。
その近くにある『高龍寺』は函館で一番古い寺院で、函館戦争時には函館病院の別院として使われました。
当時、戦いで傷を負った旧幕府軍の兵士が入院中、新政府軍の兵士が乱入して傷病兵を惨殺し寺に火を放ったとされます。
傷病兵は会津藩の者だったので、明治の世になって旧会津藩関係者が供養の碑を建てました。
『傷心惨目の碑』と刻まれています。
なんとも痛ましい文字です。
写真には写っていませんが、碑の右隣には会津地方の野山に自生するベニサラサドウダンの木とご神杉が植えられています。
このベニサラサドウダンは福島県知事時代の松平勇雄氏が植樹したもので、松平氏は会津藩最後の藩主である松平容保のお孫さんです。
さて、石碑の締めくくりはやはり『一本木関門』です。
市内の福祉センター横にある若松緑地公園と言うハマナスの花が咲き、よく手入れされた公園の一角に位置します。
最後は、歳三が写真を撮った田本研造の写真館です。
これはちょっと探し回りました。
当時の會所町15番地は現在の末広町のこのあたりです。
突き当りは函館山、反対側は海です。
歳さんは、ここで生涯1枚の写真を撮ったものと思われます。
これで、函館の土方歳三を訪ねる旅行記は終わりです。
今回、行く先々で歳さんファンに出会いました。
こちらにも毎日たくさんのご訪問をいただいており、ありがとうございます。
もし、記事や写真に間違いなどあればご指摘いただけたら幸いです。
おまけ・・・
今回のイカは立待岬のフェンスにずら~っと並ぶイカ、なかなかかわいいデザインでした。
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