幕末ウォーク~東海道57次~
東海道はお江戸の日本橋から京の三条大橋まで五十三次と思われていますが・・・
江戸時代、徳川幕府が東海道を整備する前に豊臣家が京の伏見から大阪まで、淀川の堤防を兼ねた道路を整備していました。
やがて大阪城が落城すると、徳川幕府は豊臣家にはばかることなく街道を大阪まで延長して東海道五十七次としたのですが、京・大阪の人たちは五十三次から五十七次まで延びた四次分を『京街道』『大阪街道』と称して決して東海道と言わなかったということです。
五十七次は、京の三条大橋の手前の大津から分かれ、伏見・淀・枚方・守口の宿を経て高麗橋が終点となります。
今回の幕末ウォークは前回の続き、鳥羽伏見の戦いで満身創痍となった吉村貫一郎が、淀川をひたすら下り、帰藩を願って大阪の盛岡藩邸まで歩いた(であろう)道筋をたどりました。
この日のスタートは、京阪電車の牧野駅から。
やがて枚方に入ると、ここからは淀川の堤防道とはちょっとおさらばして、京街道を選びました。
貫一郎は京街道を歩いたか、堤防道を歩いたか・・・
妻子にぜぜっこを残すことを至上の目的としていた男は、宿なんぞでわらじを脱がずに堤防道を選んだのではないかなぁ・・・。
鍵屋資料館
淀川からの船が、屋敷の下に直接入れます。
街並みはそこそこ保存されていますが、宿場町らしい旅籠や茶店の名残りがなく、ちょいと串団子や焼き餅といった楽しみがないのが残念。
ランチのあとは歩く歩く、ひたすら歩く・・・
京街道枚方宿の西見附を出たあたりからまたもや淀川堤防道へ出て、予定通り大日まで歩き、ここから大阪モノレールに乗り帰ってきました。
この日も歩きに歩いたり19km。
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