8月、誕生日
先日TVで、広島に原爆が落とされた日の特集番組を見ていて、それが1945年のことだったと改めて知るにつけ、自分の生まれたのが終戦からまだ10年ちょっとしか経っていなかったことにちょっと驚きました。
父は桜の七つボタンで知られた予科練生として、三重県の海軍航空隊で終戦を迎えました。わたしが幼いころ、押入れの奥に『予科練第○期生 ○合○郎』と父の名前の記された毛布がありました。家の近所の寺院の土手には防空壕の跡があり、ともだちと肝だめし的に入ったらひんやりとしてカビ臭かった記憶があります。まだまだ終戦の色がそこここに残っている時代でした。
自分が生まれたこの8月は、原爆、終戦など何かと戦争と平和について語られる月であり、毎年母の作ってくれるご馳走を前にして、誕生日を家族揃って祝ってもらえることにちょっと感謝したものでした。それは母がよく「食べるもの、着るものがなかった戦時中のことを思ったら、今は本当にありがたい」と言って、決してものを粗末に扱わなかった姿勢を見て育ったからかもしれません。
連合軍からぼろぼろにされ、世界中から孤立し、都市は焦土となり、国家としての機能を奪われた終戦から見事に復興した世に生を受けてン10年・・・ お正月と一緒で、この年になると誕生日の今日と翌日で何が変わるかと言えば、何も変わらないんだけれど、今は健康でこの日を迎えられることに感謝して、今年もケーキにろうそくを立てました、もちろんケーキはバタークリームでした。 (ろうそくの数は何か意味があるのか・・・!?)
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コメント
れいちさん、お誕生日おめでとうございます。
ケーキを買ってお祝いしてくれるなんて、良いご家族ですね
。「れいち」というお名前も、いいな、いいな
。なんか硬い名前をつけられた身としては、「子」のつかない名前つけた親は、ハイカラな感じがして憧れでした。
私たちの世代の親たちは、戦中に子供時代・青年時代をおくったので、戦争の話、よく聞きましたよね。同じ町内にも、腕や脚を戦争でなくした人もいて、子供心にも戦争の傷痕を感じたものです。
うちの子供たちに、おじいちゃんおばあちゃんのそんな話をしても、ピンとも来ないようです。昭和は遠くなりにけり、か…。昨夜も子供2人、電気つけっぱなしで、寝てました
ちなみに、うちのB太とB子も8月生まれです。
投稿: 秀子 | 2008年8月12日 (火) 10時11分
れいちさん、お誕生日おめでとうございます。
ひとつやふたつもうどうでもエエんですが、
(たぶん、私のほうがちょこっと上よね?)
私たちの記憶にはたぶん、
大きな駅のガード下でハーモニカとか
アコーディオン演奏してる
傷痍軍人さんの記憶ってあります・・よね?
人が一杯通るガード下って、当然都会で。
なんでガード下かって話ですが、やっぱ、
雨が降っても風が吹いても毎日のことだったからでしょうか。
都会の喧騒なのに、薄暗かったガード下。
多分私の記憶は、上野駅だと思います。
父親が下町出身で、
デパートといえば上野か銀座でした。
(母の実家は山手線の反対側にあたり、
デパートは渋谷か新宿だったそうな。)
この季節になると国営放送様が視聴率関係無しに
放送してくれるドキュメンタリーも意義があるのだ、と思えます。
ちなみに、祖父は南方で終戦、父は勤労奉仕で出かけた工場で、粟ヒエご飯でぴ~ぴ~になり。
母方の大叔母のご主人は硫黄島から帰ってきませんでしたが、ほんとうの戦場へ行った世代の男たちがなぜか少なく(遠い親戚にはもっといらしたと思われるのですが。)
私が聞かされた戦死の話はこの旦那さんだけでした。
母の兄たちは軍隊には行ったものの、戦地に赴く前に終戦で、やっぱり泣いたそうです。
投稿: miyuki | 2008年8月12日 (火) 11時44分
秀子さん
ありがとうございます。
今年も順調にひとつトシを重ねました。
秀子さん、TAMOAさんでのわたしのHNが“レイチェル”だったことは覚えていてくださってますか!?
そこから“rei”と名乗っていましたが、こちらでは“れいち”です。
これが本名だったら山田かまちに匹敵する素敵な名前ですが・・・。
夏休みの平和学習では祖父母からの聞き取り調査と言うお題が出されたりしましたね。
実家の祖母もB男くんの母も、食べ物がなくていかに悲惨だったかということを中心に語りましたが、予科連生だった祖父は“けっこうお菓子が配給されて甘いものには不自由しなかった”などと的外れなこと言ってました。
お宅のご子息Bとご令嬢Bはともに8月生まれ?
では秀子さんは年末年始に合体されたんですね~
ああ、すみませんすみません。
清廉な秀子さんにこんな話題を・・・。
投稿: れいち | 2008年8月12日 (火) 23時30分
miyukiさん
うちの方の厄除けで有名なお祭りに、浄財の箱を置いてアコーディオンを弾いている傷痍軍人さんがいました、白い着物で。
そこの前を通らなければ本殿へ行けないので、幼いころのわたしは怖くて怖くて親にしがみついていました。
わたしは戦争が怖いです。
>都会の喧騒なのに、薄暗かったガード下・・・
うっひゃ~~、都会ですね。
映画とかTVドラマでしか見たことのない闇市とか、靴磨きの少年とかそんな世界、miyukiさんナマで見たんですか?
うちの父、予科練で飛行機の訓練は受けていましたが、実際には乗る飛行機がなくて終戦を迎えたそうです。同じ世代ですね、きっと。
投稿: れいち | 2008年8月12日 (火) 23時46分
僕等ぁわぁ~ 生まれたぁ~~♪
小さい頃こんな歌が流行っていたけど
いつの間にか 戦後 って言葉も死語になりつつある。
戦争も遠い歴史の中での話になっちゃったんだねぇ~。
れいちさん、お誕生日おめでとう。
美味しそうなケーキだね。
立てるろうそくは歳の数だけ ってのが普通だけど
歳を重ねると数が多くなりすぎて省略しちゃうんだよね。
10歳で1本 てな具合に。
なんて考えると、
はははっ れいちお婆さん と呼ばせてもらった方がいいのだろうか。
♪戦争ぉ~を~ 知らない~
子ぉどぉ~も達ぃさぁ~~~♪
投稿: ふじ | 2008年8月13日 (水) 00時47分
ふじさん
ははは~~^^
れい婆ぁでごじゃります、ふがふが。
わたし、婆ぁのわりには車の運転荒いし飛ばすし・・・『雨上がりの競馬場』って言われてます。
そのココロは・・・『不良馬場(ババ)』って。
ところでこんな時間にコメント入れてくださるってことは、すでにお盆休み?
)
いいなぁ・・・
うちはカレンダーどおり。
だから交代で休みます、明日はたまたま休みだけど、飛び飛びに仕事いくのもなんだか疲れるぅ~~~。
ずっと休むのももっと疲れるぅ~~~。
(どないやっちゅうねん
間もなく終戦記念日ですね。
玉音放送、ふじさんやっぱり泣いた?
投稿: れいち | 2008年8月13日 (水) 00時59分
私ドコ行っても一番年行ってるモンで。ふがふが。。。
闇市とか靴磨きの「少年」はさすがに知りませんが
靴磨きのおじさん、おばさんなら
今でも現役で有楽町駅近辺におられるかと。
(つい先日もお見かけしたっけな)
御徒町と上野の間にはかの「アメ横」があるので、
たしかに
私が子供のころは闇市の名残っぽかった・・・かも?
昭和の記憶もほんと、曖昧になりました。
ふと思ったんですが、
傷痍軍人さんが立っていたのも
もしかして、お祭りや、暮れ正月限定だったのでしょうかね、私が小学生くらいのときはすでに。
たしかに、ちょっと怖かったんです。
なるほど、戦争が怖かったんだなあ・・・(遠い目。)
新聞屋さんがくれた「日劇夏の踊り」ってショーを
見に行くと、たいていは映画がセットになってて、
(日劇って昔の日劇ね。有楽町の。)
それが加山雄三主演の戦争映画だったりしたのね。
今見たらどうと言うこともないのかもしれませんが
戦争の描写は怖かったっけ。
CGやらそんなんない時代だけど、
妙なリアリティがあったような。
(戦争映画にも時代は出ますよね。)
投稿: miyuki | 2008年8月13日 (水) 04時04分
れいちさんがレイチェルさんだって、了解していますとも
。お名前は「かまち」さん系ではなかったのですね。玲智とか麗千とか、色々考えちゃいました
。
B子は娘ですが、B太は夫です。
は晩秋でございましょう。ほ、ほ、ほ
。
私月経周期が33日周期なので、出産も予定日より20日くらい遅れました。だから、娘作製
投稿: 秀子 | 2008年8月13日 (水) 13時10分
miyukiさん
昭和のアメ横・・・行ったことあります。
現役で働いていたころ、年に数回ある東京出張のとき時間作って覗きに行きました。
当時はテント張ってUSA製の軍関係のグッズやいかにもアメリカ的な衣料が目に付きましたね。
大阪アメ村、うーじんはたまに行きます。店先に置いた椅子に座った黒人のお兄さんがトランプ切りながら「ええ靴あるで~」とほぼ完璧な関西弁で話しかけてくるそうです。
あねは行きません。
はっきり分かれています。
加山雄三が戦争映画?
それは日本人の役で?
山本モナがおいらんを演じるようなもんですね。
miyukiさん、うちらの昭和論争はミョーに盛り上がることから、わたしが年上たってほとんど一緒です。
と、ふがふがっていう合わない入れ歯は
)
わたしらより年上の人、ほんっと!数えるほどしかおられませんや、げほげほっ・・・(なんなんだ、いっつもこの咳き込み
投稿: れいち | 2008年8月13日 (水) 15時31分
秀子さん
B太さんはご主人ですか・・・これまたすみません。
B夫とB娘の共同戦線はキツイですねぇ。
うちのB男くんは孤立してます、たまにAB型のうーじんが味方になってあげることで辛うじて家族のバランスが保たれています。
B子ちゃん仕込みは晩秋・・・そうでしたか。




体→9月生まれ
でした。
秋の夜長はすぐに寝たら勿体無いですものね
うちはクリスマス
なんなの?
ここって、こんなこと告白する場なの?
投稿: れいち | 2008年8月13日 (水) 15時45分
亀コメですみません。
幾つになってもお誕生日を祝ってもらうのは嬉しい事ですよね!
改めておめでとうございます。
戦後すぐ生まれの私の子供時代は戦争の話は日常的でしたし、大学時代も新宿には闇市の名残がありました。
一方では京王プラザや住友三角ビルなど超高層ビルが建ち始めた時代でもありました。
道路工事が盛んに行われていましたね。
都電がなくなって地下鉄に移行する工事もやってました。
この頃に東京でもやっと下水道が一般家庭に普及し始めました。
いったい何時の頃の話だい? 汗
全共闘が吹き荒れた昭和40年代前半から中盤であります。火炎瓶が飛び交う中を潜り抜けてマジメにお勉強をしたような気がします(またまた汗)
東京オリンピックがあったのが高校時代でした(計算しちゃだめですよ~)
中国の市民もこれを機に世界に目を向けるようになるのでしょうか?
昭和は戦後だけでも長かったですね~。
あ~取りとめのないことを呟いてしまいました。
投稿: おみん | 2008年8月13日 (水) 17時03分
おみんさん
あちらやこちらでお祝い言っていただいてありがとうございます。
一年あっと言う間に過ぎました。
こんな調子じゃすぐに還暦が来そうです。
そして・・・
これまたすごい全共闘、火炎瓶とはっ。
やはり映画やドラマでしか知らない時代です。
(今でもK都大学の周りにはそれっぽい字で書いた看板があるけど・・・)
おみんさんは北の方のご出身ですよね、そして大学が東京で、ここで運命の人、A王様と出会って、で、現在の地に至るんですか?
ずいぶん移動されているんですね。
東京オリンピックをカラーテレビで見よう、キドカラー
な~んてね。
・・・
高速道路も新幹線もオリンピックを機にできて、あれからのニッポン列島は怒涛の繁栄、でもどこかのんびりしていた昭和時代、いい時代でした。
おみんさん、長生きして昭和、平成、その次その次までも生き証人として君臨してくださいね、ついていきます・・・
あ~あ、野球はキューバに負けました
投稿: れいち | 2008年8月13日 (水) 23時12分
れいちさん、>ろうそくの数は何か意味があるのか・・・!?

マジっすかぁ~
これからは、れいちママと呼ばせていただこうかしらん?
んでも、ソレじゃあ気軽にエロバナ出来なくなっちゃいそうなので、
今までどおりで・・・笑
ちなみに、ウチの
体は夏・・・ジャマイカ仕込みデス
投稿: mojo | 2008年8月14日 (木) 00時07分
mojoちゃ~~~ん
゛
ちゃうちゃう
ろうそく6本で60歳じゃないですから
mojoちゃんに“ママ”と呼ばれるには、わたし未成年でこども産んだことになります。
う~ん・・・
ケーキはあねが買ってきてくれまして、おまかせだったのですが、中途半端なろうそくの数に首を傾げました。
お宅のA嬢ちゃんはジャマイカ仕込み・・・ふ~ん腰をフリフリしている様子が目に浮かぶ(ってなんのことだか)親子揃って踊りがうまいはずなんですね
投稿: れいち | 2008年8月14日 (木) 00時21分
すっかり出遅れてますが…

れいちさん、お誕生日おめでとうございま~す
祖父が私が幼稚園の時に亡くなってるので、戦争の話を聞くってほとんどないのですが、父の転勤で、日本における激戦地に住んでたこともありました。
たまたま偶然なんでしょうけど、沖縄、広島、長崎と住んでたんですよ。
投稿: みゆっち | 2008年8月14日 (木) 22時31分
みゆっちさん
ありがとうございます。
このトシで家族以外の方からお誕生日を祝ってもらえるなんてと~っても嬉しいです。
みゆっちさんのときにも盛大にお祝い申し上げますよ。
(くんるんちゃんのお誕生日はいつ?)
みゆっちパパさんはニッポン全国を股にかけた転勤族だったんですね
あちこちにおともだちがおられるんでしょうか・・・。
引越しには悲哀があるでしょうけど、人との縁もまた引越しの魅力のひとつでもあるんでしょうね。
へへへ・・・

バタクリ同盟
ケーキはバタクリでしたよ
次の日から盆休みに入るとかで、お店での食事もケーキも3割引だったそうです。
ばんざ~い
投稿: れいち | 2008年8月14日 (木) 23時50分